台 詞 で 創 作 1 0 0 の お 題
[ 49 ] 老若男女を問わず美人は何時だって大歓迎。

 この世には見えないものがあふれてる。
 それは例えばきっちり鍵をかけてしまわれた引き出しの中身。
 例えば、壁を挟んだ向こうの部屋。
 今いる星の反対側だってとても肉眼で見えるものでも無いし、ネットで繋がっていたとしてもその通信してる光は見えない。
 そして、勿論人の考えてる事。気持ちもだ。

 ……とは言え、今回はこんな話じゃあ無い。
 もっと、こう、個人差のある話なんだ、――きっと。



 *



 みえるんだ。
 そう言われたらまず何を想像するだろう。

「見える?ハァ、ボケが。そりゃ目ン玉開いとったら見えるわ」
 容赦なく脇からツッコミを入れたのは僕の友人。関西の出身で少々口が悪い。
「いや、そりゃあね、視力悪いけど眼鏡してるから見えるさ。でもそうじゃなくて……」
 と僕は手をゆらりと胸の前に出した。
「……ほほー、そりゃあアレか。――お縄頂戴!」
 違う。果てしなく違う。
「この状態でね、“みえる”だよ。わからないかなぁ?」
 胸の前で構えた両手を、今度は頭の前へやって、人差し指と親指で三角を作った。
 逆三角が額の前に現れる。
「……おっ!わかった!わかったでええええ!!!!」
 彼は拳を握り締めて言った。
「ウルトラセ○ンや!!! 違うか!? えぇ?あってるやろ!!!」
 ……。
 思わずジト目になった。
 そもそも彼の言う超人の必殺技の構えはこうじゃないだろう……むしろ他の超人のが近――ってそうじゃなくて。
「違いすぎるよ。“幽霊”だよ、ゆうれい!実は最近よく見えちゃうんだよ!」
 今度は彼の目がジト目になる。……突拍子も無い話だからかな、しかたない。
「おま……とうとう頭がおかし……」
「なってないよ!知ってるだろう?こないだ引っ越したの。その新しい住まいで頻繁に何か見えるんだよ!
 ――顔半分が焼け爛れてる人とか、首が異様に長い人とか、一見普通そうでも近くによると透けてる人とか!!」

 生まれてこの方幽霊なんて見た事が無かったし、信じてもいなかった。
 テレビやネットでやってる特集を見ては「バカだなぁ」と思っていたし、そもそもそんな特集を組む事自体意味が無いとさえ考えてた。
 でも……一ヶ月前、引っ越してから僕の目はどうやらおかしくなってしまったらしい。

「へぇ。そりゃあガラ○面の先生ちゃうん?ホラ、長い髪で火傷の痕隠してはった」
「無いね。明らかに致命傷だったよ。……目の玉も無かったし」
「首が長いて、首長族の人やな。変な首輪で無理やり長してんの」
「純日本人風だったよ。おまけに着物のね」
「……透けてはる人か……そればっかりはようわからんけど。向こうが透けて見えるくらい、絶食状態やったんやろか……」
「人間はね……絶食しても向こう側が透けてみえるようにはならないんだよ……」
 ボケなのかマジなのか計りかねる返答に脱力感を覚える。……いや、しかしこんなのは日常茶飯事だ、と思わなければ彼の友人はやっていられない。
「兎に角、もう既にお亡くなりになってそうな人が見えちゃうんだよ。心霊番組で取り上げられそうな類のさ」
 ハァと肩を落とした。
 なんでこんなのがみえるようになっちゃったんだろう。
 そんな事を思っていると、まるで“キラーン”という効果音が出てきそうなポーズで彼が言った。
「――なるほろ。じゃあお前さんはその“ゆーれい”とやらを信じとる、っちゅーこっちゃな?!」
「いや、信じるも何も、見えてるから。ね」
 そう返すと目の前の彼は口元に手を当てて、頬を膨らませた。……コイツ、爆笑一歩手前か。
「ぶぁっはっはっは!!そうか!そうかぁ!お前もそんな夢見る年頃か!ウンウン、えぇで、夢見るんは自由やからな。思う存分見ぃや!
 けど、そうかぁ――そんなん信じる方には見えへんかったんやけど」
 その通り。
 全くもって、その通りだった。……ハズだったんだ。
「小さい頃から信じていなかったさ。けど、あの部屋に移ってからは見えるんだ。信じざるを得ないよ」
 起きたら枕元に首の無い人が立っていたらそりゃあもう信じるしか無いってものだ。
 しかしさっきからバカにしたような事ばかり言いやがって、ちくしょう、だ。
「そういう君はどうなんだい? まぁ、今までの返答から察するに信じてないんだろうね」
「あったりまえよ!エェか、この世にはそりゃあ見えへんモンはようけある。そしてそれが見える言うてるお人等がおんのも知っとる。
 でもそれが真実とは限らへん!オレぁ、自分の目で見えへんモンは信じないようにしてるんや!」
 どん、と胸を叩いて言い張った。
 あぁ、そうだね、ちょっと前の僕ならきっと同じように言ったさ。
 フーやれやれ、と首を横に振る。

 と、その時だ。横の方に誰かが立っているのに気付いた。
 おばあさんだ。
 こっちを向く。



 あ、ヤバイ。
 ――体がほぼ半分無くなってる。



 ズザッ、と思わず後ずさりをした。
 その音で気付かれたのか、いや、それより前に目があってた。
 おばあさんがほとんどとれかけてる足とまだ大丈夫そうな足を交互に動かして、こちらへ向かってくる。
「……あ、え、い、いや……」
 声がまともに出ない。逃げ出したいけど不甲斐ない僕の足はガクガクに震えてちゃんと機能してくれない。
「あえいいや?なんや、新しい挨拶かなんかか?」
 能天気な事を言っている彼の腕に縋りつく。
 その普通じゃない様子に気付いたのだろうか、彼は険しい顔つきになって僕を支えてくれる。
「どないしたん?自分で怪談話して怖なって、腰抜けたん?アホすぎんやろ、ソレ。ウン、爆笑モンや」
 ちくしょう、死ねコイツ。なんでいっつもそういう事しか考えてないんだ。
 僕は怒りが混じった目をそちらに向けるが、それと同時におばあさんがそこまで差し迫ってるのも確認してしまった。
 顔面蒼白とはきっとこの事だ。
 鏡を見てないから確信は持てないけど、たぶんそうだ。絶対そうだ。
「……?」
 そんな僕を見ていよいよおかしいと思ったのだろう、彼は僕を支えながらも、とうとうそちらを向き――



「あれ、なんやぁ、田中のばあちゃん。買い物行くん?」



 ……。
 ……。
 …………。

「アカンて。ばあちゃん一人やったら豆腐一丁かて持たれへんて。オレいっつも言ってるやん。
 買い物行く時は一緒に行くから声かけてーて」

 ……。
 ……いやいや、まてまて。現実逃避はこれくらいにしておこう。
 ふるふると首を横に振る。
 そして意を決して僕は口を開いた。
「ああああああああ、あの、あえ、っとえあ」
 二人――と、今はそういう事にしておく――が不思議そうな顔でこちらを見た。
 ……落ち着け、落ち着くんだ僕。
 完璧に笑いまくってる膝をパシパシ叩きながら気合を入れ直す。
「え、えっと、その――お知り合い?なのかな……?」
 そう訊くとそのおばあさんはにっこりと笑って、「えぇ」と言った。
 顔の半分もほとんど無いが、そこから出た声は不思議に綺麗な、心地良い声だった。
 半分しか無いので推測の域は出ないが、よくよく見てみると顔も綺麗な方じゃないだろうか。
「ふっふっふ、よう訊いてくれたな!実は最近お知り合いになってんな〜?こんな横顔美人さん、そうそうおらんもん。
 見つけた時には、オレってば老若男女を問わず美人は何時だって大歓迎なんやなーってしみじみ思たわ」
 彼は自慢げにそう言った。おばあさんは「いやね」と笑っている。
「……へぇ、それはナンパヤロウな事で……――ってそうじゃないだろう?!」
 僕は大きく頭を振った。
「何なんだよ!さっきの話と全く違うじゃないか!」
「へ?なんでよ?」
 キョトンとする彼に、こっちがキョトンとしたいくらいだっ。

「“見えるものしか信じない”って、見えてるなら信じてるって事じゃないか!――幽霊を!!」

 ぜはーっ、ぜはーっと肩で荒い息をする。
 彼はというと未だキョトンとしたままだ。そしてややあって、眉間に皺を寄せつつ腕を組んだ。
「――おま、何を言うてるんかようわからへんわ。見えへんから、信じてへん……そのまんまやん?」
 何が違うんかサッパリやで、といけしゃあしゃあと付け足しやがる。
 開いた口が塞がらないとはこの事なのか。
 僕が口を開けっ放しにして、何も言わないのを見て、なのか、彼はまだ続ける。
「大体そんな非ぃ科学的な事、真面目に信じとるなんてアホやで。ラップ音かて調べてみればただのきしみ音。
 心霊写真やって天下のホトソ様があれば大量生産間違い無しや。動画系かて、ほら、ぷれみあとかあふたーえふぇくつとかそういうんでシャシャッと出来る時代やで。――まぁ、オレは使い方よう知らんけどな。
 そんな信じられる程、オレバカとちゃうもん」
 おお、お前は間違いなくバカだ!!大バカだ!!!!
 そう言ってやりたいけれど確かにヤツの言う事も一理ある。
 世の中、何が本物で何が造られた物かなんてのはわからない。だから、自分の目で確かめた物でなければ到底信じられない。
 うん、わかる。わかるさ。

 でもな?!今、ここで見てるんじゃないのか、と!!
 そしてこうも言ってやりたい、――お前の目は節穴か!いや、節穴だ!、と。

 ふるふるふるッと首を盛大に横に振った。
 フツフツと沸き起こるツッコミの嵐を追い払う為だ。
 僕は追い払いに成功した後、今度はおばあさんの方を向いた。直視に耐えない姿形をしているが目を背けては失礼だ。
 にっこりと微笑むご老人に、僕もまた笑い返しながらそれを訊いた。
「あ、あの……女性にこんな事を訊くのは失礼なんですが、おいくつですか?」
 おばあさんは一瞬(恐らく)驚いたような顔をして、でもその綺麗な声で答えてくれた。
「享年79歳ですわ」

 …………。
 …………――ほらああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!
 やっぱりそうじゃん!!!!!!!!!享年って言ったじゃん!!!!!

 心の中では叫びまくっていたが、それを出さずに、別の意味で驚いた表情を作る。
「え、とてもそうは見えませんよ。てっきりまだ70もいってないような方かと」
 まぁ、実際には75くらいかなと思っていたけれど、それでも実際年齢より若かったわけだ。
「あらあら、最近の人は皆口がうまいんだから」
 クスクスと笑うその様は実に可愛らしいのだが、気分はスプラッタ映画鑑賞会だ。
 別に外見で差別をするわけではないが、正直これは差別とかそういう問題では無い。
 ――だって、どこからどうみてもこの世の住人では無い、のだ。
 僕は何故かホケーッとだらしなく顔をニヤけさせている彼の腕を引いて、耳元で告げる。
「聞いたか。享年、79歳の方だぞ?!」
「あぁ、聞いた。ばっちりこの耳で聞いたで……」
 良かった。このバカの耳はお飾りでは無かったらしい。
 ならどういう事を僕が言いたいのかも、そのお飾りでは無いと思いたい頭で導き出してくれ。
 ――と、思ったのが間違いだったらしい。
 彼は目をキラキラさせながら、こう言ったのだ。
「まさか79も行ってるとは思わへんかったで?!オレなんかてっきり50代かと思うとったわ!!!」
 ならお前、田中の“ばあちゃん”は無いだろ、とひっそり心の中で思う。
 いや、しかし。僕が導き出して欲しかったのはそこじゃあ無い。断じて、無い。
 お飾りだと判明した頭をしこたま叩いてこちらを向かせた。
「なっ、なんやのん?! 頭ってのは叩いたら叩いた分だけ、アホになってしまうんやで!?」
 そうなのか。しまった、今までに叩き過ぎたから、彼の頭は空っぽだったんだろうか。なんてちょっと真剣に考えたりもする。
「そうじゃないって言ってるだろ!享年、だぞ享年。この言い方、どういう時に使われるかくらい知ってるんだろう?!
 ――もう、この田中さんは亡くなってらっしゃる方なんだ!……そうですよね、田中さん?」
 くるりとそちらを向くと、人の良さそうな顔のおばあさんは、やはり笑顔を絶やさぬまま首を縦に振った。
「えぇ。だって“享年”ですもの。丁度、そう、丁度4年前の今日でしたわ。
 そこをもうちょっと行った先の交差点でダンプカーに引かれてしまいまして。ご存知ないかしら?」
 4年前というと僕はまだ高校生でこの辺りには住んでいなかった。関西出身の彼もそうだろう。
 二人して首を振った。
「僕達、大学に入ってからこちらに越してきたから――知りませんでした。
 ではそれからずっとこの辺りに?」
「そうなの。行動出来る範囲はわりと大きいのだけれどね、どうしてもあの交差点を中心にした動き方しか出来ないみたいで。
 人伝に聞いた話だとジバクレイとかいうのになってしまったみたい」
 困ったものね、とおばあさんは笑う。が、それは正直笑い事では無い。

 一ヶ月前に越してから“みえる”ようになってしまった僕は、この一ヶ月色々と調べたりもしたのだ。
 霊には色んな種類があるけれど、場所に囚われてる地縛霊はふとした拍子に悪霊と化してしまう危険性が高いらしい。
 自分が死んだという事がわからず、辺りの人に話しかけても無視をされ、遠くに行きたくても行けない。
 死んだ自覚のある人も、いつまでも同じ場所に囚われている事で精神に異常をきたす――それで、次第に自我が崩壊し、悪霊化してしまうのだ。

「……成仏はされないんですか?」
 ついそう訊いてしまった。おばあさんは悲しそうに笑う。
「出来ればしたいのよ。先に夫が行って待ってるはずだもの。でも――どうしたら出来るのかしらね?」
 成仏の仕方がわからないのか……何かこの世に未練でもあるのだろうか。
 少し考え込んでいると、ちょっとの間静かだった彼が手をわなわなと震わせている。
「……おおおお、おおお」
 ――何だ?何か乗り移りでもしたのか?!
 サッと辺りも見渡すも人っ子一人居ない。ここは普段から人気の少ない住宅街の一画なのだ。
「どうしたんだ?何かあったのか?」
 そう訊くと、彼は目をカッと見開いて、

「夫?!?!?!」

 ほとんど叫ぶように言った。

 ……ハァ?

「夫!つまり既婚者!あぁ、わかってた、わかってたんや。美人さんにはいっつもお相手がおるって事はな!オレなんかどうせ永遠に一人身や、そうや。この世は不公平過ぎるわ!オレみたいにそんなに見てくれも悪ない、成績も悪ない男になんで相手が出来へんねやーっ!!!」
 その性格が一番悪いのだ、と言ってやりたいところだがそれよりも先に鉄拳が飛んだ。
 “勉学”以外はからきしダメな頭がもっとダメになった事だろう。
「ぶはっ、何すんのん?!」
「何するも何もないだろう!?お前は、今までの話、少しは理解してんのか?!
 田中さんはなぁ――お前の信じてない、“幽霊”なんだよ!その目で見えてんのに、何で信じてないんだよ!?」
 すると彼は未だかつて見た事無い程に眉間に皺を寄せて、怒ったように叫んだ。

信じられるか、どアホ!!!!!

 正直かなり驚いた。バカみたいに叫ぶことは多々あっても、こんな怒った叫びは初めて聞いたからだ。
「信じられるわけあらへん!もし、オレは幽霊さんが見えるとしても、そう信じてしもたら――アカンねん」
「……何でだよ?見えるものなら信じても――」
「なら、何でや」
「?」
「何で、親父とお袋は姿を見せへん!?何で兄ちゃんは、姉ちゃんは。妹は、オレんトコ来てくれへんねや?!」
 ……なん、だって?
「確かにオレぁなんか違うモンが見える。けど、それが幽霊やとは絶対に認めへん!
 たぶんそれはアレや――通行人Aさんとか!!!!」

 なんだそれ。

 シリアスなシーンかと思って身構えたが、結局彼は彼らしい。
 僕はふぅ、と息を吐く。
「じゃあ、その通行人Aさんでもいいや。何かが見える事は認めるんだね」
 少し躊躇したようだが、彼はやがて頷いた。
「ならいいや。その話は終わり――という事にしておくよ、アホ呼ばわりした事は後で追及するけど」
「是非そちらも終わりにしてやってください」
 彼はすぐさま、へこへこと頭を下げた。



「まぁ、それはさておき。田中さん、何か未練があるから成仏出来ないんじゃないですか?」
 先ほど見かけた時はこの世の終わりかと思うくらい震えていたというのに、僕ときたらなんて適応力なのだろうか。
 目の前の半分体が無くなっているおばあさんと、もう普通に話を出来るくらいになっているのだ。
 なんて事を頭の片隅で考えつつ、僕はそう訊いた。
「……未練、そうね……何かあったかしら」
 田中さんは首を傾げる。
 僕も同じように傾げていると、つい、と横から手が挙がった。
「オレ、たぶんわかるわ、その未練っちゅーの」
 田中さん本人もわからない事が彼に果たしてわかるのだろうか?不思議に思ったが、僕は先を促した。
 彼は小さく頷くと、右手の方を指差した。
「あっちに行くとな、豆腐屋さんがあんねん。ばあちゃんと会うたんもそこやねんけど、その時のばあちゃんの横顔言うたらそりゃあもう美人さんで――」
「わかったから、先を」
「……おう。 で、ばあちゃん豆腐が欲しいんかな?思て、オレ買ってあげたんよ。そんでちょっと歩いたトコで豆腐を手渡したら――持たれへんくて、道にベチャって落ちてしもた。
 ――ばあちゃんはなんかショックな顔して、サーッて消えてしもたんや。
 次に会うた時も豆腐屋に行こうとしてた時やった。……その次も、ずっと会う時はそう。
 やから、きっとその豆腐屋か、豆腐になんかあるんとちゃう?」
 なるほど、そう何回も同じシチュエーションが続くなら何かあると考えたほうがいいだろう。
 田中さんの方を向くと、彼女は若干目を見開いて口元を押さえていた。
「そうだわ……」
「え?」
「思い出した――わたし、孫に豆腐のハンバーグを作ってあげようと思って、お豆腐屋さんに行って……そこで……。
 孫の好物でしたの。普通のお肉だけのより、わたしの作ってあげる豆腐入りの方が好きって言ってくれて。
 あの日は、孫の誕生日――だったのに」
 ポロリと彼女の目から涙が零れた。今は無き爛れた片目からも雫は落ちる。
 そして、その雫が落ちて――
「た、田中さん……!」

 ――彼女は生前の姿を取り戻した。



「す、すごい!何でだろう、あんなに酷い怪我だったのに!」
「アホぅ、そんなん当たり前や。――愛の力や……!」
 ……は?何を言っているんだろうコイツは。
 と、まぁ、いつもならそう流す所だが、今回は確かにそうかもしれないと思えた。
 成仏を妨げるほどの未練、それはお孫さんへの想い。
 それを思い出せたから、その想いがきっと、彼女を生前の姿へと戻したのだ。
 そして、
「田中さん。お孫さんの誕生日、今日なんですね?」
「え、えぇ」
 きっと、その姿に戻ったのには意味があるんだろう。

 僕は鞄を漁って地図を取り出した。この辺り一帯が載っている。
 ――持ち歩いていたのは、別に地図マニアとかそういうわけじゃない。車の教習で使う物だからだ。
「ええと、学校がここで……あった!
 見てください、田中さん。今いるのがここ、そしてこっちが僕のアパートです」
 現在地からさほど離れていない場所を指差す。
「この場所まで行けますか? 行動範囲に含まれてますか?」
 彼女は不思議そうに、でもコクリと頷いた。
「じゃあ決まりです。今から僕のアパートまで一緒に来てください!」
「えっ、ちょっ、おまっ!!守備範囲広す――」
 あからさまに驚いた彼の方をギロリと睨む。
「黙れ。大体その手の事に関してそんな風に言える権利が君にあるとでも?」
「じょ、冗談やんかぁ。そんなに睨みなさんなってぇ」
 ハタハタと顔の前で手を振りながら取り繕うようにそう言った。……全く、冗談を言っている場合じゃないってのに。
「――別にお宅に伺うのは構わないんですけれど……どうしてか訊いても良いのかしら?」
 田中さんは首を傾げる。
 僕はくい、と眼鏡を押し上げた。
「仮定でしか無いですけど――田中さんは、お孫さんに豆腐のハンバーグを作ってあげられなかった事、ひいては誕生日のお祝いをしてあげられなかった事が未練で成仏出来なかったんじゃないですか?」
「それ、は……」
「僕はそうだと思います。だから、今日、その未練を晴らすべきなんだと思います。
 4年の年月が経ってしまっていても、レシピは覚えているでしょう? 今から僕の家に行って、豆腐のハンバーグを作るんです。――最も、実際に作るのは僕なんで教えて貰わなきゃいけないんですが……。
 そしてそれをお孫さんに届けるんです。今からでも遅くない――誕生日のお祝いを、してあげてください」
 ポロリ、と田中さんの瞳から雫が落ちた。
「遅く……ない、かしら。――えぇ、わたし、祝ってあげたい。……でも」
「でも?」
 スッとまだ広げたままだった地図を指差した。そこは一軒の家。ここからバスで2つ程行った辺りだった。
「どうしてもそこまで行けないの。家は見えてるのに、道一本分、どうしても、届かないのよ」
 ……なんて事だ。
 勿論彼女自身はきっと見えないのだから、僕達が渡すだけでも問題は無いだろう。けれど、それではきっと田中さんの心は晴れない。
 それに――この“道一本分”の距離に阻まれて、ずっと家族の元へ行けなかったのも未練の一つになっている可能性がある。
 一体どうすれば……、と下唇を噛んだ時だった。
 横から能天気な声がした。

「アホやなぁ。全く、頭が固ぉーてかなわんわ」

 やれやれと首を振りながら大げさに息を吐いて彼は言う。
「そんなん、実際行ってみんとわからへんやん。成仏しまっせ!っていう心意気があったら、その、縛りつけとる何かもちったぁ緩めてくれるかもしれへんやろ。
 大体、それが無理やとしても――そのご家族、道一本分、こっちに来させばエェ話やんか」
 ……。
 ……。
 ――ポンッ、とどこかで電球の灯る音がした。
「なるほど。そう言えばそうかも」
 田中さん一人だけでは今まで他の人に干渉出来なかったかもしれないけど、今度は生身の人間が2人も居る。だから、彼の言うような選択肢だって、当然有り得るんだ。
「そうと決まれば善は急げです。さぁ、田中さん」
 こっちです、とアパートへの道を指し示す。そしていざ歩みを進めようとして――
「アホっ!!材料買うていかなアカンやろが!!!豆腐屋さんはこっちや!」
 それもそうだった、とくるりと体を半回転させて、僕は一歩を踏み出した。



 *



 月が、街灯が、道を照らし始める。まだ辺りはそこまで暗くはないが、それでも刻一刻と夜が近づいてきていた。
 バスに揺られながら僕はバスケットを握り締める。中身にはまだ温かいであろう豆腐のハンバーグ。お皿に乗せてラップをかけただけだから、ふんわりと匂いがしてくる。
 隣に座る彼の方はというと、僕のバスケットと同様、こちらは紙袋を握り締めていた。
 中には少し前、そう4年程前に流行った戦隊モノのおもちゃ。4年前にお孫さんにあげたかったのだと聞いて、途中おもちゃ屋に寄って買ってきたのだ。
「本当に良かったのかしら、こんなにしてもらって……」
 前の席――勿論、他の人から見たら空席だが――に座る田中さんが心配そうにこちらを見る。僕は笑って答えた。
「構いませんよ。そうですね、もし気になるというのであれば、素敵なレシピを教えて貰ったお礼という事で」
 田中さんは豆腐のハンバーグのレシピをばっちり覚えていた。それもすごく細かく。
 僕は一人暮らしという事もあって、普段から料理をする。それで昔、自分でも豆腐バーグを作った事があったのだが、……結果は散々な物だった。だから今回田中さんにレシピを教えて貰えた事は本当に嬉しい事だったのだ。
 ちなみに味見もしたが、ものすごく美味しく出来ていた。
「そう言って頂けると嬉しいですわ。今言うのも何ですけれど、昔は料理教室も開いていたんですよ」
「わ、先生だったんですか!」
 なるほど、それなら納得がいく。――あんなグラム単位できっちり覚えてるなんてよっぽどだ、と考えていたからだ。
「先生なんて言える程のものじゃなかったんですけれどね。……あぁ、このバス停ですわ」
 言われてブザーを押す。程なくしてバスは停まり、僕達はそこに降りた。
 そして田中さんの案内のもと、歩みを進める。
「ふっはぁ、なんや緊張してきたわ。……何て言えばいいんやろ?ばあちゃんと会うて、料理一緒に作って、プレゼントも買うて、届けに来ました!か?」
「……それじゃあまりにも直球過ぎるでしょ……。大体、他の人には田中さんの姿は見えないんだから、もっと、こう、……ね」
 そうこう言いながら道を進んでいく。
 ――と、田中さんが歩みを止めた。

「やっぱり、無理みたいですわ。ここまでが限界」

 慌てて辺りの家を見渡すと、道一本向こうに、“田中”の表札を見つけた。
 十字路を道一本挟んで少し行った先。今はもう、その十字路の端まで来ているというのに!
「そんなっ、本当に無理なんですか?!」
「せや、もちっと踏ん張ったらいけるかもしれん!ばあちゃん、頑張るんや!!」
 そう言って田中さんの手を引っ張――れるはずも無く、手は空を切った。
 見た目は元に戻っても、本質が戻る事は決して無かったのだ。
「ちくしょう、カミさんめ。ちったぁオマケしてくれたってかめへんやろに!」
 このケチヤロウが!!と彼はそらに向けて罵声を飛ばした。
「……仕方ない。 田中さん、ここで待っていてくれますか?なんとかご家族にこちらへ来て貰えるようにしてみます」
 上へ向けてあまりよくないポーズ――中指を立てたりする――をしている彼の腕を掴んで引きずっていく。
 “その家”の前に立って、僕は深呼吸をした。
「じゃあ、押す、よ」

 ピーンポーン

 軽快な音が響く。
 家の中から誰かが歩く音が聞こえて、しばらくするとインターホン越しの声が聞こえた。
『はい、どちら様でしょうか?』
 僕は少し悩んだけれど「お届け物です」と告げる。
 ガチャガチャと鍵を開ける音がして、それと同時に外灯がついた。灯りに照らされて、一人の女性が外へ出てくる。
「あの、印鑑は要りますか?」
 宅急便か何かだと思ったのだろう、女性がそう訊いてきたので僕は慌てて首を振った。
「い、いえ!宅急便じゃなくて……その」
 そう言いながらバスケットを掲げた。女性は首を傾げながらも玄関先へと出てきてくれる。
 門は閉じたまま、それを隔てて僕達は頭を下げた。

「あ、あの、初めまして。僕は錦織楓(にしきおりかえで)、彼は南條悠(なんじょうゆう)と言います」
「えぇ、初めまして。――それで、届け物って?」
 訝しむような表情で女性が訊いたので、内心すごく焦りながら門越しにバスケットを渡した。風に匂いが乗って、鼻腔をくすぐる。
「僕達、田中――ええと、田中のおばあさんと仲良くさせて貰ってまして。それで、今日がお孫さんのお誕生日だと聞いたので、教えて貰ったレシピで料理を作って――」
 そこまで言って、口をつぐんだ。
 目の前の女性がバスケットを受け取りながらも、不審の色を濃くしていっていたからだ。
「おばあさん?……義母の事でしょうか。もう、4年も前に亡くなったのですけれど」
 ――えぇ、知ってます、とでも返すべきだったのだろうが、どうにも口が働かない。
 すると代わりに隣の彼が続けてくれた。
「今日が命日だと伺ってます。お悔やみを申し上げます。
 生前にお会いした時にお孫さんが好きだったというレシピを教えて貰いまして、丁度オレ――いや、僕達、こっちに出てきたんで、お世話になったせめてものお礼にと思うて」
 それ、持ってきたんです、とバスケットを指した。
 女性はやっぱり不審そうな表情を崩しはしなかったが、少し下がって、バスケットを開けた。途端広がる美味しそうな匂い。
「これは……!」
 パッと顔を上げて、驚いたようにこちらを見る。4年が経っても、わかってくれたのだろうか。
 と、その時だった。
 玄関の扉が開いて、男の子が顔を出した。
「お母さん、まだなの? もうロウソク点けていい?」
 小学生の高学年くらいだろうか。パッと見だし、どの辺りが?と訊かれたら困るけれど――どことなく、田中さんに似た綺麗な顔立ちをしている。
「ちょっと待ってね慧太(けいた)。――すいません。それで、あの」
 女性はそう言ってすぐに僕達の方へ向き直る。そして言葉を続けようとしたのだが、

「おばあちゃんの料理の匂いがする――!!」

 タタタッと男の子が駆け寄ってきて、バスケットを覗いた。
「豆腐のハンバーグだ!!おばあちゃんが作ってくれたのと同じ匂いがしてる。どうして?どうしたの、コレ。ねえ、お母さん?!」
 困惑したように言葉を返せない女性から視線を移し、今度は僕達の方を向いた。
「おじさん達知ってる?!もしかして……おばあちゃん、帰ってきたの?!」
「おじ……!お兄さんで頼むわ!!!!」
 お前、そこは反応する所じゃ無いでしょ……と、彼のツッコミの早さに呆れながらも僕は首を横に振った。
「それね、僕達が作ったんだ。おばあちゃんに教わって。今日、誕生日だって聞いたから。あと――」
 隣の彼が紙袋を持ち上げた。男の子はすぐに門を開けて、それを受け取る。
「コレ……ボクが欲しいって言ってたヤツだ。でも、何でおじ……お兄さん達知ってるの!?」
「うん、それもねおばあちゃんから聞いて――」

嘘!!!

 男の子はおもちゃの箱を抱きながら体全身で否定した。
「そんなハズ無いよ!だって、ボクがコレ欲しいって言ったの――おばあちゃんが出かける直前だったもん!その後おばあちゃん、すぐに買い物に行ったもん!誰にも会ってないよ!」
「い、いや、そんなんわからへんやろ……それに4年も前やで?坊ちゃん、何歳やったん? そんな、ちゃんと、覚えてへんやろ?」
「覚えてるよ!7歳だったもん、4年しか経ってないもん、おばあちゃんがいなくなった日の事だもん、忘れるハズが無いよ!!」
「慧太……」
 女性が男の子の肩を抱いて止めようとするが、それを振りほどいて僕の腕を掴んだ。
「ねぇ、おばあちゃん帰ってきたんでしょ?そうなんでしょ?それで、僕の誕生日だから、プレゼント持って――ねぇ!!!!」
 必死で縋る男の子に、僕は何も返せなかった。

 田中さんは帰ってきてない、それは確かだった。
 ――けれど、そこまで“来ている”それも確かなのだ。

 僕は例え見えなかったとしても、田中さんの居る所までこの子だけでも連れていってあげなければ、と、そう思った。
 だから道の向こう、そこで待っているはずの田中さんの方を振り仰いだ。
 外灯が切れてしまっていてうっすらとしか見えないけれど、彼女はそこに居る。
 たった道一本分、少し向こうの十字路の先でこちらへ来れない歯痒さを抑えて、待っているのだ。

 すると男の子は僕の視線の先が向こうにあるのに気付いたのか、おもちゃの箱をそこに置いて、道向こうを見た。
 あぁ、でも、どうせそこはただの空間にしか見えないのだ――と、そう思っていた。
 けれど、

「おばあちゃんだ」

 ポツリと呟いて男の子は駆け出して行く。



「ほら、やっぱり帰ってきたんだ!おばあちゃん、おかえりなさ――!!!!」



 ――そこからはやけにスローモーションに感じられた。

 外灯の切れた十字路。
 こちらからは死角になっている側からの車の進入――もう暗いというのにライトを点けていなかった。
 曲がってきた車は真っ直ぐ十字路の先へと向かっていた男の子の目の前に現れる。
 向こうから田中さんが駆け寄ってくるのが見えて。
 響くブレーキ音。
 ドサッ、と何かが転げる音が近くでして――

「バッカヤロウ!!!いきなり飛び出てくんじゃねーよ!!!!」
 運転席から罵声が飛んで、車はすぐに去っていく。
バカヤロウ?それはそっちやろが、このアホがあッ!!ライトも点けんと運転なんかすんなや、ボケが!!大体住宅街の中は徐行運転が基本、十字路とかやったら一時停止してでも安全を確かめるんが人間としての常識や!それも知らんヤツが車なんか乗んな!死ね!!運転ミスって死んじまえ!――あぁ、でもアカン、それやったら廃車になってしもた車と、それを片付けるお人が可哀想や。……人様の世話にならん死に方で死にさらせ、クソが!!!
 ハァッハァッと肩で息をしながら彼は言う。
 僕もそれくらい言ってやりたい気分だった。―― 一体何なんだ、あの運転手は!?
 しかしそれすらも薄れるくらいの事が起こっていた。

 すぐそこに、田中さんが慧太君を抱いて倒れているのだ。

「慧太!!! ッ! そんな、まさか――お義母さん?!?!」
 駆け寄った女性が驚愕の声を上げる。

 なんて事だ――彼女には田中さんが“みえている”。
 それに……さっきは触れなかったというのに、今は慧太君を“抱いて”倒れている。

「ん……あれ?ボク……」
「慧ちゃん、大丈夫?!」
 先に身を起こした田中さんが慧太君を抱えて起こす。
「怪我は無い?ごめんね、ごめんね、いきなり押したりして怖かったよね」
「……ううん、そんな事無い。えへへ、おばあちゃんだぁ。おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん……!」
 涙声で呟きを繰り返しながら田中さんに抱きつく。
「帰ってきてくれたんだよね。もうどこにも行かないんだよね?!」
 それには言葉を返せなかったようで、田中さんは困惑した顔で視線を彷徨わせた。
 そしてその視線の先が固定される。
 こちらも田中さんに負けず劣らず困惑した表情で。
「お義母さん……まさか、でも。そんな、本当は生きてらっしゃったんですか?!あの時、遺体が酷い状態で顔も碌に判別出来なくて――だから、もしかしたら本当は違うんじゃないかって、ずっと思って……!!!」
「典子(のりこ)さん……」
 力なく首を振る。抱きついたままだった慧太君を抱き起こし、田中さんは立ち上がった。
「いいえ、違うのよ。――わたしはもういない。 けど、最期に……そう、最期に神様がオマケをしてくれたみたい」
 そう言って僕達の方を見た。
 にっこりと綺麗な笑みなのに、とても悲しい。
「慧ちゃん」
 慧太君が涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
「あの時お祝いしてあげられなくてごめんね。おもちゃもね、4年も待たせちゃってごめんね。
 おばあちゃんね、慧ちゃんに料理美味しいって言って貰える時が本当に嬉しかったの。だからお料理いっぱい作って、喜ばせてあげたかったのに。
 誕生日だったのに、おばあちゃんのせいで辛い思いをさせちゃって、本当にごめんね――!」
「っ、そ、んな事、いいよう。だって帰って、きて、くれたんでしょ?ねぇ、おばあちゃん」
 田中さんは首を横に振った。
「おばあちゃんね、もう行かなきゃいけないの。ずっと行けなかったけど、もう今なら行けるってわかるから」
 そう言って天を仰ぐ。もう空は暗く、無数の星が瞬いていた。
「おじいちゃんがね、あのお星様のどれかでおばあちゃんの事待ってるの。だから、そこから、一緒に、ずっと見守ってるから、ね」
「嫌だよ!星なんて遠すぎるよ。なんで、もっと、近くで、また料理を作っ――」
 言いながら伸ばした手が空を切った。
 ――時間切れ、なのだろうか。
「そんな、さっきまで触れてたじゃないか!なんでっ、おばあちゃん、おばあちゃんっっっ!!!!!」
 ここから見ていてもわかる。だって、向こうが見えてる。透けてるんだ。
 田中さんは涙を流しながらも微笑んだ。
「慧ちゃん。男の子ならそんなに泣き虫さんになってはだめよ。大丈夫、近くに居なくてもおばあちゃんはずっと見守ってるから」
 そして静かに泣いていた女性――典子さんの方を向いた。
「典子さん、今までありがとうね。ウチの息子は幸せ者ね、こんなに良い奥さんを貰えて。――わたしも、こんなに素敵なお嫁さんと一緒に暮らせて、こんなに可愛い孫に恵まれて、とっても幸せだったわ」
「お、義母さ、んっ」
 嗚咽を抑えながら、でも抑えきれなくて言葉が途切れ途切れになった。
 もう触れられないとわかっていても手を伸ばさずにはいられなかったのだろうか。典子さんの手は虚しくも空を掴むに終わった。
 田中さんは今度は僕達の方を向いた。
「ありがとうね。おかげで成仏出来そうですよ。わたしの事、気味が悪かったでしょうに、付き合ってくれて本当にありがとうね」
「そんな、そんな事無いです」
「せや、オレぁ最初っから言ってたやん、横顔に惚れたて!だからこうやって付き合うんは惚れたもんの務めや、当然の事なんや!」
 自慢げに胸を張る彼の横で、僕は眼鏡を外して流れた涙を袖で拭った。
 成仏して、安らぎを求めに行ける。それは素晴らしい事だ。
 けど、もう本当にこの世から消えてしまうのだと思うと、それはとても悲しい事にも感じられた。
 でも。
 いつかは必ず来る別れが、未練を残さない物に成り得るのなら、やっぱりそれはとても素晴らしい事なんだろう。
 だから田中さん笑顔がこんなにも眩しい。
 もう質量を持たないであろう手を慧太君の頭に乗せるようにして彼女は笑んだ。
 そして――
「わたしはもう近くにはいないけれど、おじいさんと一緒に、いつまでもあなた達の事を見守っていますからね――」
 余韻を残すかのように綺麗な声を響かせて、田中さんは天へと昇っていった。



 *



 あの後、僕達は“本当の事”を話した。
 幽霊の田中さんに出会って、成仏できないわけを知り、それに協力してここまでやってきたのだ、と。
 普通の人には到底信じて貰えないだろうが、実際に“みえていた”二人はすぐに信じてくれた。
 話をした後はすぐさま帰ろうとしたのだがものすごい勢いで引き止められる。
 もう夜も遅いから、次の日も授業があるから、と言って、それでも尚引いてくれないので後日また家を訪ねることを約束して――やっと僕達は帰途についた。

「……っはー、それにしてもスゴイもん見ちまったって感じやなぁ……」
 アパート近くのバス亭で降りて家へ向かう最中、彼がこんな事を言った。
 ちなみに彼も一緒にアパートへ向かっているのは、鞄やなんかの荷物を僕の部屋に置きっぱなしで行ったからだった。
「そうだね……でも田中さん、良かったね。道一本分、飛び越えて慧太君助けられたし」
「それや!なんでいきなり行けるようになったんやろな?それどころか体、触れたみたいやん。――やっぱアレってカミさんのオマケ、なんやろか?」
 恐る恐る天を見上げて言う彼に、「さぁ」と返してクスクス笑う。
「それも、もしかしたらあるかもしれないね。“ケチ”と言われて中指立てられちゃあ神様も黙っていられなかったのかもよ」
「うあー、せやったら、嬉しいか怖いんか、って感じやな。オマケしてもろたんは嬉しいけど、ホンマに見られてんねやったらマジで怖いわ」
 なむなむと手を合わせてから、今度はそのままキリスト教の祈りの形へ持っていく。――無宗教、というより無頓着か。どの神様でもいいのだろうか。
 祈りの間立ち止まっていた彼は、それが終わったらしいのに足を進めない。
 不思議に思って僕も止まって彼を待った。

「――オレさぁ、ガッコ受験する前に下見に来たわけよ」
 唐突に始まった話に僕はただ「うん」と相槌を打った。
「関西からこっちやん?旅費も当然ホテル代もいるわけでさ、だから金がかからんように一人で来て」
 そんでさ、と彼は続けながらも、渇いた笑いを零す。
「戻ったら、皆死んどってん。――火事やて、笑えるやろ?」
 思わず目を見開いた。
「ウチが火元やったわけとちゃうのに、その辺り一帯巻き込んで全焼。
 焼けてズタボロやから連絡先とかそういうのがわからんくて、オレは帰ってやっと知った。
 “良さそうなトコやったで”てウキウキ気分で報告しちゃろ思てたのに、帰ったら誰もおらへん、何もあらへん。ホンマもう笑うしかなかったわ」
 そういえば2年前、関西の方で酷い火事があったとニュースで言っていたのを思い出す。――けど、それが彼の家だなんて?!
「金なんてケチらずに全員連れて行けば良かったんや、ってアレほど自分を呪った時は無かったわ。……そりゃあ普通に考えて、そんな事は無理やったんやけど。
 そんな事になったらとてもやないけど大学なんか行かれへん。そう思うてたら親父の方のじいちゃんが金は出してやるから絶対に行けって言ってきた。親父とお袋の母校や、お前も将来考えるなら絶対に行っとかなアカン、てな。
 ホンマはそんな気分にはなれへんかったけど、親父とお袋が、オレがそこ受けるって言ったらすげぇ喜んでたん思い出したんや。だから、その為だけにも行く価値はあるって思ーてな」
 ぷらぷらと歩き出した彼の横を無言で歩いた。何も、言える言葉が無かったからだ。
「ほんで受けて、受かって、一人暮らしやー、エェトコ見つけたここにしよ、……で住み始めたらなんや変なモンが見えるようになった。交差点で、小道で、色んな場所で田中のばあちゃんみたいな人が見えた。
 それがこの世におる人等や無いってわかった時はそりゃあ嬉しかったで。だってまた家族に会えるかもしれへん。言葉は交わせなくても、姿だけでも見えるんちゃうやろか、て、そう思て待ってた。
 ――でも世の中そんなに甘ない。いくら待っても誰一人として姿を見せへんし、家のあった場所に行ってみても人っ子一人見あたらへん。一ヶ月待って、半年待って、一年待った頃にはもう信じる心は品切れや。
 周りにチラチラ見えるお人等もただ見えただけで他に何もあらへん。あんなんちょっと外見の派手な人となんら変わらへん。ただの通行人に過ぎへんねや……って、そう理解した」
「それで“通行人A”?」
 そう訊くと彼は笑って頷いた。
「バカみたいやろ。見えてんのに信じたくなかったんや。ホントに見たいモンが見えへんねやったら、今見えてるモンかて嘘なんや……って。
 でも今回の事で思い直したわ」
 ンーと伸びをしながら彼は言った。
「田中のばあちゃんは未練があったからずっとこの世におった。っちゅーことは未練の無い人は、“みえる”人でも絶対にもう見えへんトコにさっさと行ってしまうって事やろ?
 なら、きっと――オレの家族は未練も無く、ちゃんと上へ昇って行けたんや、って。今ならそう思える。……そりゃあ、ちったぁオレの事心配して留まっとってもエェんちゃうんか、とも思うけどな。
 でも、もうホンマはおらへんお人が無理に留まる事程辛いモンは無い。
 だから、――それで良かったんやと、そう、思う」
 言って、彼は天を見上げる。
 田中さん流に言うならば、数多の星の中のどこかに、彼の家族もきっと居るのだろう。そうして田中さんや、旦那さんともひょっとしたら知り合いになって、皆で下を見守ってる。そうだな――そこに僕の両親も居るならば、きっと、楽しい。
「そう、だね」
 僕もまた、天を見上げてそう言った。



 * * *



 世の中には見えないものがいっぱいだ。
 個人差のある――そう、“この世にあらざるもの”なんてのもあるけれど、それは結局大した問題じゃあ無い。
 だってそんなの、最終的には神様のさじ加減一つ。それで全てが変わってしまうからだ。

 それよりも、もっと見えないものはあふれてる。

 それは例えばきっちり鍵をかけてしまわれた心の中。
 見た目と言動だけじゃ推し量れない人の想い。
 ――僕はこうして彼の意外な一面を知ったのだけど、それはやっぱり“一面”でしか有り得なくて。



「……かえで、かえでっ!!」
「どうかした? あぁ、ちょっと待って、今鍵開けるから――」
 そう言って鍵を出す。
 すると彼は興奮したように僕の肩を揺すぶった。
 一体何なんだ、と体ごとそちらを向けた瞬間――

 異様に首の長い人が見えた。

 思わず背筋に悪寒が走る。し、仕方ないじゃないか。田中さんの時だって、最初は怖かったんだから!
 さっき料理をしに戻ってきた時はまだ日が高かったせいか出てこなかったのだ。だから夜、暗い中で見る彼女はより一層その存在感を増して……まぁ、正直怖い。
 しかしそんな僕を尻目に彼は頬を赤く染めてこうのたまった。
「顔、めっちゃ好みやわ!!!」
 ……ハァ?!
 そして更に続ける。
「首長いんは確かにちとアレやけど、着物美人やで、アレは得点高い!ちょおオレ名前聞いてこよ!」
「へっ、あっ?!」
 ルンルンとそっちへ向かっていく彼を慌てて追いかけた。
 ――田中さんみたいに良い霊なら兎も角、危険な霊だったらどうするつもりなんだ?!なんであんなにホイホイ行けるんだっ!
 これも“通行人”としてしか認識してない軽さ故なのだろうか。
 それならばそれはすぐに改めた方が良い、絶対そう思う。
 既に“彼女”に声をかけ自己紹介を始めるその速さと言ったら、ある意味尊敬もので。



 この世にはきっと、見えないものがあふれてる。――それは例えば人の思考や気持ちとか。
 でも僕は今、ちょっとしたエスパー気分だ。何故なら彼の考えが手に取るようにわかるから。

 “老若男女を問わず美人は何時だって大歓迎!”

 そう言った彼の言葉を思い出す。要するにナンパ根性なのだ。
 ……あぁ、そうだね、全くその通りだよ!

 彼の意外な一面、以外の何面かは必ずソレで埋まっているのだろう、と僕は確信し、
 そしてこっそり息を吐く。
 まぁ、仕方ない。こんなので打撃を受けてちゃ彼の友人はやってられないのだ。

 さて、ではまずツッコミから――と、僕は拳を握り締める。
 狙う先は当然そのお飾りでしか無い空っぽの頭で。


「かえでっ、かえで!純ちゃんやって!!名前からしてオレもう、惚れブゴッ」
 僕の放った鉄拳は、そのお飾りを更なる高みへと昇華させたのだった。
前半ギャグ、後半シリアス、オチはよくわからん、というまぁ、いつものパターンでしたね!
ついついダラダラやってたら一万どころか二万近くなったよ。あぁ、それが金ならいいのに!
後半は書いてて涙ボロボロでした。妄想って怖い。^q^ 少しでもうるって来て頂ければ幸いです。
ていうかまぁ、ここまで読んでくださっただけでも号泣もんですけどね!ありがとうでっす!

2009.4.16.